風薫る男鹿谷、界隈
2007年 05月 06日
2007年2月6日
ため池の歴史
若葉薫る男鹿谷界隈
古代よりあった水田の灌漑用の池として太閤検地の
文禄三年頃(1594年)男鹿谷池は構築したと推測される、
徳川政権下、泉州地方でも、(1968年)新田開発があり、
口畑池が構築され、その後水田の増加により農業が盛ん
になり、灌漑用水の確保と男鹿谷池の老朽化による
使用不能のために、明治期に構築されたのが明治池。
(大阪府農業史参考)
奥畑に対し口畑(コチ畑)の集落があり、付近の農地を
耕作し猪塀、猪穴、の構築をしたと思います。口畑谷は
口畑集落より直線で奥へのび、奥小別当谷に突き当たる。
途中分岐して左奥が男鹿谷、この谷も奥小別当谷に突き
当たる。集水面積は男鹿谷池のほうが広い。
(各池の数字は岬町ため池調査表参考)

男鹿谷池
廃池になってから,100年余りの歳月がたち、
堤の周囲に100年の巨木が生い茂り、鬱蒼たる
森の中に池と云うより沼となり、竜でも住む
ような、不気味さ、訪れる人も無く
貯水量 3,500立方m 満水面積 1,250㎡
堤 幅 3,5m 堤長 35m 堤高10m



口畑池
現在も使われている。10年ほど前から錦鯉が
放されていますが、増減はないようです。
貯水量 12,000立方m 満水面積 3,000㎡
堤長 25m 堤高 10m 堤幅 2,5m



明治池
現在も水不足の年は使用していますが。上樋は
崩壊して使用不能、中樋も辛うじて、使用出来
る程度、
貯水量 47,400立方m 満水面積 7,900㎡
堤長 40m 堤高 15m 堤幅 5,5m



ため池の歴史
若葉薫る男鹿谷界隈
古代よりあった水田の灌漑用の池として太閤検地の
文禄三年頃(1594年)男鹿谷池は構築したと推測される、
徳川政権下、泉州地方でも、(1968年)新田開発があり、
口畑池が構築され、その後水田の増加により農業が盛ん
になり、灌漑用水の確保と男鹿谷池の老朽化による
使用不能のために、明治期に構築されたのが明治池。
(大阪府農業史参考)
奥畑に対し口畑(コチ畑)の集落があり、付近の農地を
耕作し猪塀、猪穴、の構築をしたと思います。口畑谷は
口畑集落より直線で奥へのび、奥小別当谷に突き当たる。
途中分岐して左奥が男鹿谷、この谷も奥小別当谷に突き
当たる。集水面積は男鹿谷池のほうが広い。
(各池の数字は岬町ため池調査表参考)

男鹿谷池
廃池になってから,100年余りの歳月がたち、
堤の周囲に100年の巨木が生い茂り、鬱蒼たる
森の中に池と云うより沼となり、竜でも住む
ような、不気味さ、訪れる人も無く
貯水量 3,500立方m 満水面積 1,250㎡
堤 幅 3,5m 堤長 35m 堤高10m



口畑池
現在も使われている。10年ほど前から錦鯉が
放されていますが、増減はないようです。
貯水量 12,000立方m 満水面積 3,000㎡
堤長 25m 堤高 10m 堤幅 2,5m



明治池
現在も水不足の年は使用していますが。上樋は
崩壊して使用不能、中樋も辛うじて、使用出来
る程度、
貯水量 47,400立方m 満水面積 7,900㎡
堤長 40m 堤高 15m 堤幅 5,5m



by tutujimisaki
| 2007-05-06 10:21

